さて、そんな中で一番困ったというか恥をかいたのが「了」と「的」である。大学入学間もない頃、「我的名字叫什么什么」という文を読めと命ぜられた。同学たちが読めない中、私は自信満々に「Wo di mingzi jiao」と言ったのだが、あっさりと「不对啊!『的』は『de』と読みます」と言われてしまった。気を取り直して「来了」といった簡単な文にもチャレンジして「Lai liao」とドヤ顔でカマしてやったのだが、あいかわらず「不对。この場合の『了』は完了なので『le』です」と返され、すっかりメンツを失ってしまった。おかしい、紅歌によるとそれぞれ「di」と「liao」ではなかったか。
結局は(当たり前だが)老師が言ったほうが正しかったのだけれど、爾来、なぜ歌の中ではそれぞれ「di」、「liao」と発音するのかという問いを考え続けてきた。オチを白状すると、正解らしいものは見つけられていないが、今までの考察と、なんとなくそれっぽい理由を記録しておこうと思う。
「liao」、「de」の例
音楽劇『东方红』における「松花江上」の歌唱。歌は「我的家在东北松花江上~」から始まる。これをピンインで表記すれば「Wo de jia zai Dongbei Songhuajiangshang」であるが、実際は「wo di jia~」と歌われていることが分かるだろう。また、「脱离了我的家乡」も「tuoli liao」と歌われている。
他にも例を上げたらきりがないほど「liao」、「di」と歌っている歌曲が存在する。一つ一つ挙げていって目録を作る気はないので、わかりやすい「松花江上」のみを紹介した。ただダメ押しとして我ら紅衛兵の愛唱歌「东方红」も思い出していただきたい。「中国出了个毛泽东」と歌うとき、皆様はなんと発音しているだろうか?こちらも「liao」だろう。このように歌曲の中ではこう歌うといった不文律のようなものが存在しているようで、日常会話のように発音している例をあまり見かけない。
ただし、「di」は「liao」ほど厳格にルールとして周知されているわけでは無いようで、「de」と歌っているが「了」は「liao」と発音するという変則的な歌曲も存在する。例としてこの黄歌を聴いていただきたい。
毛主席も共産党も出てこない精神汚染音楽だけど妙に聴き入ってしまう名曲「小苹果」。これには「的」がいっぱい出てくるが、どれも「de」で統一されている。しかし、「了」は「liao」と発音されるなど、いまいちルールがつかめない。
中国人の意見
こういった問題は一人で呻吟しても答えなどでない。ただ調べるとか聞いてみるとかの実践あるのみで「梨の味を知りたければ食べてみれば良い」のである。この世でいちばん中国歌曲を歌うという実践をしているのは中国人だから、彼らの意見を聞いてみよう。まずは百度知道(ヤフー知恵袋のようなもの)で同じような疑問を持っている中国人がした質問についた回答を見ることにする。以下は「https://zhidao.baidu.com/question/341520521.html」からの引用。
回答者その1:どんな歌かによって決まる。大部分は「di」、「liao」だよ~
回答者その2: 「的」に「di」なんて音はありません(←マジ?)。流行ってる歌をそう歌う人が居ますが、ルールから言えば間違っています。「了」を「le」か「liao」のどちらで発音するかは具体的な状況で判断してください。常識で言えば、普通話でされる発音と一緒ですよ。
質問者の追い質問:「的」に「di」なんて読み方がないって本気かよ。キーボードで変換するか辞書見りゃ分かんだろ。 じゃあオマエは「的确(dique)」とか「目的(mudi)」を「de」って発音すんの?マジメに質問してんだからフザケないで。回答ありがと。
回答者その3:まぁ「的」は「di」と、「了」は「liao」と歌われるのが普通。歌の様子で決まる。。。回答者その4:昔は「di」だったけど、今は「de」って歌うのが正式だとされているみたい。
これはひどい
本邦のヤフーごみぶく……もとい知恵袋もかなりテキトーな回答だらけだが、海を隔てた唐土でもソースなし、「俺はこう思う」的回答が跋扈していようとは……そして「的」に「di」なんて読み方はねぇ!とおっしゃる御仁は一体何者なのだろう。
ネット上の中国人たちがテキトーな回答ばっかすることがわかっただけで、結局なんと発音するのが正式なのかはわからずじまい。どうせこんなこったろうと思ったので、数年前、中国人に面と向かって発音を聞いたことがある。その時はネイティブに聞けば明確な答えがわかるだろうと期待していたのだが……
私:どうして歌う時は「liao」、「de」となるの?
中国人:は?ならないけど……
私:じゃあ「松花江上」歌ってみてよ
中国人:wo di jia~あっほんとだ!
私:でしょ?なんでそうなるの?
中国人:知らない
という不毛な会話に終始し、増えたのは知識ではなく疲れだった。ちなみにこの質問、大学時代に中国関係のご学問がご専門であらせられる教授連中にもお伺いしたことがある。その時に返ってきたのは「それは私の専門ではない」というお言葉。これだから知識分子は……だが、2人ほど親身に回答していただいた先生がいて、それらのアドバイスのおかげで答えのようなものが見つけられた気がする。
私の推測
先生のアドバイス、それは「時代、あるいは地域による違いかもしれない」ということと、「音楽的な理由もあるかも」というものだった。たしかに大陸では「liao」、「di」が規範だという話はどこかで聞いたことがある。そう思ってテレサ・テンの歌を聴いてみたが、大陸と同じだった。もう一つのアドバイスを基に音楽的な方向で考察しようともしたが、そっち方面は「私の専門ではない」からよく分からない。
結局は心の押し入れにしまい込んで考察をやめたのだが、不思議なことに日本語の古文を思い出した時にヒントがひらめいた。本朝の古文にはよく「きよら」という表現が出てくる。それと同じ意味で「きよげ」というものもあるそうだが、きよら>きよげの党内序列で、後者は一等劣るらしい。なんでそうなのかは知らないけれど、「げ」という濁音が粗野というか下品さを感じさせるのだろうと思う。
そこまで考えたところで思った。「地域とか政治的、そしてことばの意味から考察してきたが音楽である以上、響きやリズムと言った観点で考察しても良いかもしれない」と。
考えてみると「le」、「de」は「liao」、「di」よりも音が弱い。実際、中国人が「的」を強調して発音する時は「di」となる場合がある。チャンチャカチャンチャカ八釜しい音楽の中でそれらが埋没してしまったらもったいない。最初に挙げた「松花江上」の「的」を「de」と発音することにして歌ってみると、歌いやすく、かつ音が通るのがどちらかというのがはっきり分かる。ここで注意したいのはしっかりと「e」の発音をすることだ。無理やり日本語にするならば「ウォドゥァジアー」といった具合に。そうすると「ウォディジアー」としたほうが歌いやすいと感じるだろう。
同じ理由で东方红も「liao」と発音したほうが音楽の良いアクセントになる気がする。また、この曲は「中国出」の部分で音程が上がりきり、「了个毛泽东」で下がっていく。その切替のど真ん中に入る「了」が弱い音ではなにか締まらない。しっかりと「リアオ」と発音してこそ音楽の美しさを感じられると考える。
こういう「音楽的な理由でそう発音されている」説は千葉大学普遍教養センターがPDFとして公開している紀要第4号の中の小川快之氏による報告「中国語授業における歌の活用の有効性について」の冒頭においても触れられている。随分長ったらしい道案内になってしまったので、直接報告に飛べるURLを貼っておこう(https://www.cphe.chiba-u.jp/ge/activity/archive/pdf/plc04-07.pdf)。ただし、該当箇所はファンキー末吉・古川典代『中国語で歌おう!―カラオケで学ぶ中国語―』(アルク、2000年)からの引用であるそうで、孫引きとなってしまうが許してください。
このように、音楽的な、それも素人でも理解できる音の強さとかリズム感に着目すればこの説が納得できはしないだろうか。惜しむらくは紅歌ファンを名乗りつつ、音楽を忘れて政治的かつ意味的な観点でしか紅歌を考えられなかったことだ。きびしく自己批判しつつ、もっと紅歌を聴いて音の奥深さを味わうとしよう。
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