むかし、友人に「観光地などに貼ってある『キヨイナカレ』とはどんな意味だ?」という質問をされたことがある。キヨイナカレ?どんな漢字だ?清い勿れ?と逡巡したが、なんだかよく分からなかったので、なんだろうねアハハと逃げた。だが、実際に文字として「清勿」を見てみればすぐに「请勿」の誤読だということがわかる。彼は「清」と「请」の区別がついていなかったのだ。そして、彼だけでなく、日本中にそうした人が存在するのは「清勿」でググればわかる。加えて、そういうふうに字体が違うせいで习主席や毛泽东と言った文字列を見て偉大な方々を想起できないという重大な問題がある。そう考えたところで気がついた。同文の国と云ったのも今は昔、簡体字のおかげでだいぶ異文の国となったのである。中国語を知っている者にとってはすんなり飲み込めるが、知らない方にとっては意味不明な文字なのだ。それに気づかせてくれた友人にお礼とともに「アレは言べんあるよ」と教えてやりたい。
今日は事程左様に中日の文化交流に多少の影響を及ぼしている簡体字について見てみようと思う。字体だけでなく読み方を示す表記方法--ピンイン、注音符号、国語ローマ字、ウェード式、イェール式、拉丁化新文字--も詳らかに見ていきたいが、そうすると一本くらい論文がかけそうなくらい文量がヤバいことになるのでここでは字体に特化して進めていく。
どうして簡体字を採用したのか
これはわりと単純な理由。「文盲の人民に字を教えるため」だ。日本では江戸時代ともなれば民百姓の識字率も世界トップクラスとなり、もう高札を見て「和尚様ぁ、こりゃなんと書いてあるだべ?」などとやらなくて済むようになったが、中国では20世紀初頭まで識字率が低かった。だから字を読むためには地主様、士大夫様に頼らねばならなかった。漢字は彼らに独占されていたのである。
そこで、清朝を打ち倒して現代化を目指す国民政府は識字率の改善が発展に不可欠だと考え、識字教育を開始した。彼らの方針は繁体字を使い続け、その読み方を示すために注音符号を用いる、というもの。注音符号というのはㄇㄠˊ ㄗㄜˊ ㄉㄨㄥのようなアレだ。どうもこれの完成度がずいぶんと高いようで、中国語の音を表すのに適した表記だという。一説には、中国語初学者はピンインでなくこちらを学んだほうが理解が深まるというらしい。私はピンインラブなので知らないけど。
一方の左派人士と共産党は漢字を簡略化するというルートを選んだ。そして読み方を示す符号は主にローマ字表記を用いた。 彼らがなぜこの方針を選んだかといえば、やはり「特権階級の文字独占を排し、より人民に教えるのに向いた字形に改革する」という考えと、「将来的には漢字を廃止してローマ字表記に移行する」という目算があったからだ。
当ブログで国民党反動派の政策なんて解説してやる義理はないから、主に中国共産党の施策について見ていくつもりだ。ここでハッキリと区別してほしいのは、「ラテン文字化」、「ラテン文字によって読み方を示す」の二点だ。前者は漢字廃止論の見地に立ち、後者は漢字を残すという立場に立っている。安藤彦太郎『中国語と近代日本』によれば毛主席や周恩来総理のお考えは漢字廃止であったようで、延安にいたころ、試験的にラテン文字化を実行している……のだが、人民の「オラたちは漢字が知りてぇだ」という身も蓋もない反発によって仕方なく識字教育に切り替えており、おそらくここから本格的に簡体字ルートへ進んでいくことになったと思われる。
簡体字表記の開始
もともと漢字を簡略化しようという運動はあるにはあったが、国民党反動派には突っぱねられ、草の根的なものでしかなかった。それが共産党の世の中となり、ようやく日の目を見ることになる。毛主席の指示を受け、実際に簡体字が正式採用されたのは1964年を待たねばならなかったが、既に1950年代から簡体字の草案は出来上がっており、1956年の国務院による方案の発表前後から既に試験的な使用は始まっていたと思われる。なお、続く1958年には汉语拼音(ピンイン)が施行されている。
実際に、1958年10月号の『中国画報』には簡体と繁体が混在した写真が掲載されている。
レバノン紛争に対するデモの模様 |
1960年代になっても簡繁の交ぜ書きは多く見られ、たとえば我々のファッションである紅衛兵腕章だって、「红卫兵」と書かれたものと「紅衛兵」が混在するし、出版物なら1970年代くらいまで繁体字が多く見られる。さる文筆家のお方から、市井でも1990年代初頭くらいまでは筆記さえできれば中国語を知らずともやっていけたという話を聞いたことがある。その頃までは人民も繁体字を知っていたのだろう。だが、1990年代の中国を生き抜くにはことばよりも「メイヨー」の嵐と斗う強靭な精神力のほうが必要だった気もするが。
一昔前は中国に興味を持つ人は奇人変人かスパイか、と言われたものだ。今も地方の年配の方とお話すると「なんだ!中国か!女に惚れ込んだか?スパイか?」と言われることがある。そんな環境に抗して中国語を学んだ人々が请と清を間違えるなんてミスは犯さない。それが今やふつうの人ですら簡体字を目にし、あれはどういう意味かと興味を持っているのである。そんな方に向かって「我が国の文化たる簡化字を読めないとは牛棚行きあるよ!」と憤慨するよりも、あれは「請」の簡体字だよ、と教えてあげた上で中国も大きくなったなぁと感慨にふけるべきであろう。
たしかに簡体字は慣れないとわかりにくい。长とか厂とか产なんて知らないと読めないだろう。しかし、今よりももっと訳が分からない「二简字」というモノがあった。幸いにして、これは正式採用を見送られたのだが、その理由が中国人でさえ意味がわからないし、略し過ぎだからだそう。これを見れば簡体字がわかりやすく感じる程かもしれない。
簡化の極地-二簡字
突然だが次の文字を見てなんのことかわかるだろうか。「铁辺兵」、「下ヨ」、「雫」、「付总理」、「欢迊」。これが二簡字の一例である。それぞれ「铁道兵」、「下雪」、「霞」、「副总理」、「欢迎」のことだ。辺、ヨ、雫は二簡字に移行するにあたって作られた字体だが、奇しくも日本の新字体(とカタカナ)に似ている。ただでさえ簡体字がよくわからないのに、こんなのが採用されていたとしたら、より理解に苦しむのは確実だ。今の中国ではあまり使われないが、俗字として残ったものもあり、「餐厅」の「餐」字の左上以外を消去する簡化字はまま見られる。わざわざ学ぶ必要はないが、華主席ファンならば抑えておきたい文字だ。
さて、この奇怪な字形はなんと1977年から人民日報などで試用が開始された。するとたちどころに「付总理って誰だよ!」、「読めねぇぞ!」という声があがった。どうも「付总理(副総理)」を付さんという名前の総理だと勘違いされたようで、総理が変わったの?といった混乱を巻き起こしたというエピソードが残っている。
結局、人民日報は1年足らずで使用をやめてしまい、その後は中央でもなあなあになってしまい、知らぬ間にひっそりと生命を終えた哀しい字。ここから後は大きな動きもなく、現在に至るまで第一次簡化字が使われ続けているというわけだ。
なお、Wikipediaのピンインの記事には「当初は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていた」 と書かれているが、その信憑性に疑問が残る。たしかに、前述の通り、中央の指導者は漢字の廃止を目論んではいたが、延安で既に失敗していたのだ。それに、簡体字という存在そのものが漢字廃止と逆行してはいないだろうか。移行期間として第一次簡化字を用いつつ廃止を探る、というのならまだ分からんでもないが、捨てるはずの漢字をここまで手をかけて二簡字としてデビューさせる意図がわからない。
加えて、安藤彦太郎の前掲書では「中国の拼音は、『拉丁化』とはちがい、漢字の発音表記用であって、ローマ字化を主張する観点からすれば、後退といえよう」と述べられている。
確かに1970年代後半から1980年代にかけての宣伝画にはピンインのみの表記が多く用いられているの感があるけれども、声調が表記されておらず、ローマ字化として見るならば中途半端の趣が強いといえる。
終わりにかえて--簡体字は文化破壊か?
かつて友人が言った何気ない一言をきっかけに、まとまりのない事をつらつらと書いてしまったが、中国語の理解に多少でも役に立ってもらえれば幸いである。私は個人的に簡体字が好きだ。筆記するときにとても楽だし、何よりあの文字版ニュースピークのような、醸し出す社会主義味が大好きだ。
そんなステキな簡体字なのだが、これをやたらに攻撃する反動派がいるのは残念なことこの上ない。「中共は漢字を破壊していて、伝統的な文化はすべて台湾が受け継いだ云々」というようなことをよく聞く。日本もそうしたように、時代に合わせて文字を変えるなんて云うのはどの国でもやってきたことではないか。そんなに旧いものが好きならば旧字体と歴史的仮名遣いでも使ったらどうか。たまにネットで見るぞ、そういうヘンな人。
文盲が多かった中国において、識字率を高めんがために編み出された人民のための文字であるというところも考慮されてしかるべきだと思う。それに、旧いもの=正しいとしてしまうと甲骨文字あたりが唯一の正しいものになってしまうし、本朝で云えば万葉仮名が一番正しい「かな」になってしまう。したがって、やはり簡体字は破壊ではなく進歩を遂げた漢字であると思いたい。一部、ちょっと破壊ぎみの略しすぎ文字があることも事実だが……
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