禁書『燕山夜話』、『三家村札記』を読む

2021/01/03

志在四方山ばなし 中国語

 文化大革命の嚆矢として知られるのは姚文元が著した「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の発表だ。ほんとうは大躍進政策と、それを批判した彭徳懐同志、毛主席が実は『海瑞罷官』をべた褒めしていたことなどから文化大革命の流れは起こっているのだが、長くなるので割愛。そして、「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」に対して文化革命五人小組が提出した二月提綱をめぐってモメて……と複雑な経緯を辿るからそのへんも割愛。


そういうワチャワチャの標的が呉晗や彭真などの北京市党委員会のお歴々だったわけだが、姚文元第一の矢「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」は「批判は学術的なものにとどめておいて、政治的領域に持ち込むのはやめようね!」という反撃を食らった。もちろん、北京市党委員会攻撃は欽定なので、いずれは潰されたのだが、それでも姚文元はダメ押しとばかりに「三家村を評す--『燕山夜話』と『三家村札記』の反動的本質」を発表する。槍玉に挙げられた2つの書籍のうち、『三家村札記』は呉晗も関わっていたもの。そして『燕山夜話』は鄧拓という北京市党委員会書記が書いていたものだ。これで北京市党委員会へ砲撃せよという旗幟は鮮明となった。これが5月10日、あの五・一六通知の直前である。

 

さて、前置きが長くなったが、今日は文革終結まで禁書とされた『燕山夜話』と『三家村札記』を改めて読んでみようと思う。正月休みは大変素晴らしいが、寝るか食うかしかしていないので、多少は目と頭を使わねばより悪くなってしまう。

 

以下の引用はすべて 鄧拓著,毎日新聞社訳・編『燕山夜話 付・三家村札記』,1979年 に基づく。なお、全部を引用してるとやたら長くなってしまうので、ポイントとなるところを取り上げようと思う。先に姚文元のお小言を紹介し、果たして本文がそのとおりであるのか見てみようではないか。ちなみに、文革マニアではない方に説明すると、それらの本は古典を盛んに引用したエッセイ集である。


「『雑家』歓迎」(49ページ)

 

姚文元のイチャモン

かれは、「いま『雑家』のもつ広い知識がさまざまな指導活動と学術研究にとって重要性のあることをみとめないなら、それはわれわれの大きな損失になるだろう」と、党に警告した。『指導活動』といっている点に注意してほしい。これが急所である。さきにのべた鄧拓のことばからすると、この「雑家」というのは、十分に改造されていないブルジョア分子、地主階級分子とこれらの階級の知識分子であり、ひと握りの政治的な素性のはっきりしない人物であり、地主階級とブルジョアジーの「学者」連といった反動的人物であることが、非常にはっきりする。

  

本文

どんな領導(指導)工作、あるいは科学の研究工作をするにせよ、まず専門的な学問と、さらにひろい知識をもつことが必要で、前者は後者をその基礎としなければならない。これは明らかな道理である。

 

 (儒家、道家などの班固が考えた古代の分類は些か判別しづらいものであると述べた上で)現在、われわれは、知識の分類および各種の思想、学術の流派の区別に対して、昔の人よりずっとすぐれ、ずっと科学的になっている。われわれはいまでは班固の分類法にならうべきではない。もし、あいかわらずそれにならうなら、当然それに新しい考えをつけくわえるべきである。そうすれば、ひろい知識をそなえる”雑家”は、われわれの思想界に大いに異彩を放つものとして歓迎すべきであろう。

 

所感

う~ん。なかなか良いことを言っている。もちろん鄧拓同志のほうが、である。たしかに毛主席などはマルクス主義に中国の実情を取り入れて毛沢東思想を創り上げていった。考えてみるに、さまざま知識と実情を取り入れて中国を解放した毛主席とは対照的に、マルクス主義という「専門」にこだわりすぎた連中は、都市労働者による蜂起に拘泥して党を崩壊させたではないか。


また、古代の分類にこだわりすぎていて、現代の進んだ科学的な世界に、古代から続く学問の範疇が合致していないという指摘も正鵠を射たものであろう。理論物理学者などはどの家にも入れなさそうにない。また、儒家を学びて、銃を持った敵相手に仁と礼を説いたところで納得はしてくれない。軍事を学び敵を討ち、マルクス主義を学び国を解放し、毛沢東思想を学んで革命をやらねばいかんのだから、共産党員こそ雑家であろう。


鄧拓同志の論旨は「雑家的な人物こそ求められている」というもの。その雑家がブルジョア分子であるとか地主、あるいはそれら階級の知識分子なんてことは一言もいっていないし、それと取れるような表現も見当たらない。姚文元はどこを見ているの?

 

唯一、「ひと握りの政治的な素性のはっきりしない人物」というレッテルだけが通りそうな気もするが、考えてみるに、知識の多寡と政治的立場はあまり関連がないだろう。マルクス・レーニン主義以外は何も知らぬ者のみが「素性のはっきりした人物」ということもあるまい。


バカのひとつ覚え(124ページ)


姚文元のイチャモン

「もしも自分を人なみすぐれていると思いこみ、ひと通りはたやすくのみこめるとみるとすぐ恩師を足げにするようでは、なにも学びとれはしない」などと悪態をついた。これは、われわれの現代修正主義反対闘争に悪どい攻撃をくわえて、修正主義を門内に招き入れよ、狼を部屋にひき入れよと要求するものである。われわれは、社会主義建設に有利な、世界のすべての経験と教訓を学ばなければならないが、修正主義に学ぶことは絶対にできない。われわれは、あらゆる革命事業の大発展をこころから歓迎するが、修正主義を歓迎することは絶対にできない。鄧拓の一連のあてこすりは右翼日和見分子の口ぶりとまったく同様、党の社会主義建設の路線を「無理おし」と中傷するものであり、ソ連修正主義グループのゆき方を「学んで」中国で修正主義を実行する以外に「活路」はない、というのである。

 

本文

われわれのわからないものはまだまだ少なくない。みんな切実に、虚心に学ばなければならない。ただ、学習方面で、徹底的な解決を得ていない、たくさんの問題も残っている。三から万にいたるという、この物語はわれわれに対していろいろなヒントを与えてくれているように思われる。われわれはこの物語から、どうしたらわれわれの学習を強化することができるか、考えたほうがいいと思う。

 

所感 

修正主義うんぬんを思い起こさせる部分があまりにも少なかったので本文からの引用は少なめ。引用部に「三から万にいたる」という表現が出てくるが、それは本文中で持ち出された寓話のこと。ある子どもが文字を学ぶが、一二三と学んだだけで「わかったぞ!じゃあ先生は帰っていいから」と教師を追い出してしまう。そこへオヤジが「おい、オレの友人である万某へ手紙を書いてくれ」、「わかりました、父さん!」と子ども。翌日、子どもに進捗を尋ねると「いや~姓なんていっぱいあるのになんで万なんて選ぶんですかね。まだ500しか書けてないですよ」


この故事を基にして、あるべき学習の態度と教師や学習内容の重要性を説いていくのだが、あくまで一般論の範囲である。別に鄧拓同志が「悪態をついた」とも思わぬが、時代を考えると引用した文はいくらかの示唆性を帯びているともとれる。中国にとって先生とは、たしかにソ連であったし、中ソ論争のことを「恩師を足げに」したともとれなくはない。学習というのも範囲が広い言葉だ。国としての学習なのか、一個人の勉強なのか。それを上記の内容で断言することはできない。

 

しかし、姚文元はやはりさわぎすぎ。多少、含意のある文章とは思えるが、「現代修正主義反対闘争に悪どい攻撃をくわえて、修正主義を門内に招き入れよ、狼を部屋にひき入れよと要求するもの」とまでは思わない。少し二人でいただけで「アイツら付き合ってんだぜ!」と鼓吹する中学生のようだ。


夜の余暇を有効に(151ページ)

姚文元のイチャモン

鄧拓は、『燕山夜話』の最初の文章で、「生命の三分の一」(生命的三分之一、このエッセイの原題※引用者注)を自分のものにするという看板をあげて、「みながこの三分の一の生命を大切にして、一日の労働や仕事のあと、楽な気持ちで古今の有用な知識をいくらかでも味得されるよう注意したい」とのべた。「三分の一」というのは、おもてむきは「余暇」の時間をさしているが、もちろん、<三家村>(鄧拓同志ら三人を指す※引用者注)は決して「三分の一」をもとめるだけにとどまるものではなく、プロレタリアート独裁の全体をくつがえし資本主義の復活を実現しようと考えていたのである。だが、「三分の一」は、他の「三分の二」を自分のものにする煙幕としてうってつけである。みなに「楽な気持ち」で『燕山夜話』をよませるのは、みなの革命的な警戒心をマヒさせるためであった。かれらは、革命的立場がしっかりしていないものの「生命の三分の一」をむしばむことからはじめて、しまいにはすべてをかれらの手でむしばみつくし、<三家村>一味がいっそう多くの手兵をあつめて「平和的転化」をおしすすめる組織的な力と社会的な基盤にしようと考えていたのである。

 

本文

なかなか良い内容だし、文も比較的に短いのでこれは全文引用しよう。

 

 人間の生命には、結局どれだけの意義があるか。それにはなんらかの標準があって、はかれるものだろうか。その絶対的標準を示すことは、なかなかむずかしい。しかし、だいたいある人の生命に対する態度が、厳格でまじめであるかどうか、その労働もしくは仕事などに対する態度を見れば、その人の存在価値に適当な評価を下すこともできないわけではない。

 

 昔から、何事かなしとげた人たちは、みな自分の生命に、非常に厳粛に対処し、およそ生きているかぎりで、できるだけ多く労働し、多く働き、多く学習しようとつとめ、歳月をむだにしたり、時間をむだに浪費することはしていない。わが国の歴代の労働人民および大政治家、大思想家など、いずれもそうであった。班固の書いた『漢書』《食貨志》に、

 

 冬、民すでに入る。婦人巷(まち)を同じくするもの相従って夜績(つむ)ぐ。女工一月に四十五日  を得。

 

とあり、これは読んで見て非常に奇妙だ。どうして一ヶ月が四十五日あるのか。顔師古(がんしこ・唐代の文書官)はこれに注解をつけて、一ヶ月は三十日あり、それに(毎日の)夜中の分を加えて十五日、合計四十五日であると説明している。

 

  これで非常にはっきりする。元来、わが国の古人は、西洋各国人よりもずっと早く、科学的、合理的な労働日を計算することを知っていた。しかもつとに夜勤、昼勤の計算方法をも知っていたのである。

 

  一ヶ月は本来三十日あるだけである。しかし、昔の人は毎晩の時間をさらに、半日として計算した。そこで十五日というものが出てくるわけである。このような意味から、夜の時間は、実にわれわれ人間の生命の三分の一に相当するではないか。

 

  この三分の一の生命に対して、歴代の労働人民はこのようにそれを重視しただけでなく、多くの政治家たちもきわめてこれを重視してきている。『漢書』の《刑法志》のなかで、

 

  秦(前三世紀)の始皇は自ら文墨(ぶんぼく)を繰(と)り、昼は獄を断じ、夜は書を理す。

 

と書いているが、ある種の人たちは、秦の始皇帝と聞くと、もう喜ばない。しかし実際は、秦始皇はなんといっても中国歴史上の偉大な人物である。それで班固もかれに対して、いくぶん公平な評価を下している。たとえば、ここに書かれているのは、秦の始皇が夜間読書して、学習につとめたという点である。

 

 劉向(りゅうきょう)の『説苑(ぜいえん)』によると、春秋戦国の時代には多くの国君がみな非常に学習に注目している。たとえば、晋の平(へい)公が師曠(しこう)にたずねている。「私は歳七十だが、学問をしようと思っても、もうおそいかと心配だ」と。師曠は「どうして灯(あかり)をおつけにならないのか」と答えている。師曠は七十歳にもなる晋の平公に、灯をつけて夜に読書すること、そして懸命に時間を惜しみ、三分の一の生命を浪費しないようにすることを勧めているのである。こういった精神は、なんと尊いものではないか。

 

 『北史』の《呂思礼伝》には、この北周の大政治家が平生いかに勤勉に学問に努力したかというありさまが書いてある。

 

 国政と軍事両方の任務を兼ね、しかも、いつも手に書物を離さなかった。昼は政治をとり、夜は読書し勉強する。召使いに燭をつけさせ、その燭の滓が一晩に何升もたまったとある。

 

 燭の灰だけで一晩に何升にもなったというのだから、これで見ても彼が夜の読書に、どんなにはげんだかわかる。

 

 なぜ昔の人は、夜の時間をこのように重視し、軽々しく浪費しなかったか。彼らが自分の三分の一の生命に、厳粛でまじめな態度をとったためだと私は思う。これは実に現代のわれわれの学ぶべきところであろう。

 

 私が夜の時間の利用を考え、読者諸君に向かってこのような話をするのは、みなさんのこの三分の一の生命を愛惜するという考えを引き出して、一日中労働し工作したあと、ゆったりとした気持ちで、古今の有用な知識を味得するということをやってもらいたいからである。


所感

夜の時間を有効活用しよう!というわけだが、これは現代でも通じる……いや現代のほうが通じる内容であろう。いつクビを切られるか分からない世の中だから、古今の有用な知識を味得するのも結構だし、副業の道を邁進するのも良いだろう。

 

鄧拓同志の書いたものは、こういったふうに、古代の書籍からの引用や参考が非常に多い。昔の人の書いたものは示唆に富んでいるし、「昔から言われてるんだなぁ」などと感慨に浸れるから好きだけれども、本人が言っているように「ある種の人たちは、秦の始皇帝と聞くと、もう喜ばない」のである。封建主義の悪党なのだから、しょうがないと言えばしょうがないのだが、それをわざわざ書くか?とも思う。鄧拓同志の文は、全体を通して含意があるし、こういった「余計な一言」も多いため、革命派に悪目立ちしたのは偶然ではなかろう。

 

ただし、鄧拓同志の過失ともいえる部分を考慮したとしても、姚文元は相変わらず妄想を繰り広げすぎ。今回は全文を掲載してみたが、読んだ方の中に「『三分の一』をもとめるだけにとどまるものではなく、プロレタリアート独裁の全体をくつがえし資本主義の復活を実現しようと考えている」と感じた方がいれば病院に行ったほうがいいと思う。

 

姚文元は「三分の一を読書に使う→『燕山夜話』、『三家村札記』を読む→修正主義の尖兵の出来上がり」といいたいのだろうけど、説明不足だし、これを読んで修正主義者になったりはしないだろう。

 

おわりに 

とりあえず、3本ほどの文章を引用してみた。たった3本?と思われるかもしれないが、本文も批判もやたらめったら長いのでこれで勘弁してください。あんまり長大な文だとイジりポイントが分かりづらいので、よりつまらない記事になってしまう。


いろいろと姚文元のイチャモンを挙げたが、個人的に好きなのは「雪どけ」の下り。単行本には未収録なのだけれど、北京晚报に連載されていた「ことしの春節(今年的春节)」という文章の中で鄧拓同志は「雪どけ」という単語を使った。もちろん気象的な事をいっているのである。すると姚文元が目ざとく見つけてきては「『雪どけ』というのは、フルシチョフ修正主義グループがスターリン反対のさいにつかった徹頭徹尾の反革命の用語ではなかっただろうか」などと攻撃した。昨今、ポリティカルコレクトネスだの言葉狩りだの騒がれて久しいが、これこそ本当の言葉狩りであろう。

 

この書籍と、姚文元の批判は、文化大革命へと向かう奔流の最後のひと押しとなった。冒頭に書いた通り、革命派からの北京市党委員会、ひいては実権派に対する追加攻撃だったのだ。それはいいんだけど、攻撃にしては非常に雑なことは上に掲載した一部分を見ていただければ分かると思う。こじつけ、妄想、極論、嘘などで塗り固めた批判は相当アヤシイもので、平時の良識ある人々が見れば、すぐに唾棄すべきものだと分かるはずの代物のはず。それなのに批判がエスカレートし、鄧拓同志が死に追いやられるまでに迫害されたのは、熱狂を前にして理性がなんの抵抗もできないことのあらわれであると思う。

 

尤も、文革が一段落つき、人々に理性のともしびが再び灯ったころには鄧拓同志の名誉はちゃんと回復され、『燕山夜話』と『三家村札記』は再版されることになった。そして姚文元にも審判が下り、人民日報で鄧拓同志の名誉を回復するとともに姚文元を批判する文章が出されることになったのだが、その中で姚文元は「反動文筆ゴロ」という蔑称で呼ばれることになった。「反動文筆ゴロ」って。

 

この本と、姚文元もとい反動文筆ゴロの批判、そしてその後の名誉回復という流れは文革とその終結直後の様相を感じ取るのにピッタリの題材であると思う。理性を失い教養ある文章が禁書となる時代の熱狂、革命派であったはずの姚文元が反動文筆ゴロにまで落とされるという左翼右翼判定のユルさ、名誉回復時の鄧拓同志に対する媚びへつらいなど、あまりにも早い時間で価値観が何回も顛倒していくカオスを見ることができる。カオス=文革。毛主席も「天下大いに乱れて、大いにおさまる」みたいなこといってたし。

 

文革とカオスがどっちでも良くても、どの文章も啓示に富み、引用されている古典もためになるものが多いので、読んでみることをおすすめしたい。極左文筆ゴロの私にとっても、非常に面白い本であった。