中国語歌詞
日本語訳詞
☆概要
中国における熱血青春ソングとも言える一曲。「让生命发出更大的热和光」というフレーズがなんとも言えぬ若さとアツさを醸し出している。むしろ全体がアツすぎて逆にチープさとかうさんくささまで輝かせてるのはご愛嬌。それでも「祖国啊祖国」から一転して心込めて歌うパートは曲にメリハリがついて良いし、全体を見れば軽快で明るい歌で、名曲であると感じる。ただ一つ残念なのは、国、党と来たのだから毛主席パートも入れてほしかったこと。1番も2番も歌詞の内容は似ているのだから、3番で毛主席を入れるのも簡単であったと思うのだが。
創作年度が不詳だったが、搜狐で調べてみると一人の中国人が1964年と解説していたので、不安ながらもそれに従った。それでも、この曲は上山下郷運動が本格化する1968年以前に作られたことは確かなようである。作者は手元の資料、『红歌宝典』による。
下放先でいちばん「艰苦」だったのはどこだったろうか。多くの知識青年は現住所から近い場所に下放されたようだ。東京区部から奥多摩に向かったような感じだろうか。そういった場合は当地の人民公社生産大隊に配属(插队)され、かなり重労働ではあるが、近郊ゆえ気候や風俗が似ていることもあって「大変だったけどいい思い出だ」と語る体験者は少なくない。また、かなり遠くなってしまうけれど、建設兵団に入隊するというのも選択肢としてはあったようだ。こちらは少ないが給料は貰えるし、ある程度の生活が保証されているので比較的人気だったという。一番大変だったのが遠方にあるどっかの公社に配属されるということのようで、気候も違えば人間も違う。あまりに大変な環境に精神に異常を来す者や自殺者が出たと言われる。このあたりのことは陳凱歌著『私の紅衛兵時代-ある映画監督の青春』に詳しい。
創作年度が不詳だったが、搜狐で調べてみると一人の中国人が1964年と解説していたので、不安ながらもそれに従った。それでも、この曲は上山下郷運動が本格化する1968年以前に作られたことは確かなようである。作者は手元の資料、『红歌宝典』による。
下放先でいちばん「艰苦」だったのはどこだったろうか。多くの知識青年は現住所から近い場所に下放されたようだ。東京区部から奥多摩に向かったような感じだろうか。そういった場合は当地の人民公社生産大隊に配属(插队)され、かなり重労働ではあるが、近郊ゆえ気候や風俗が似ていることもあって「大変だったけどいい思い出だ」と語る体験者は少なくない。また、かなり遠くなってしまうけれど、建設兵団に入隊するというのも選択肢としてはあったようだ。こちらは少ないが給料は貰えるし、ある程度の生活が保証されているので比較的人気だったという。一番大変だったのが遠方にあるどっかの公社に配属されるということのようで、気候も違えば人間も違う。あまりに大変な環境に精神に異常を来す者や自殺者が出たと言われる。このあたりのことは陳凱歌著『私の紅衛兵時代-ある映画監督の青春』に詳しい。
☆動画
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